パソコンでリハビリ・前向きに生きる

(妻の記録)

突然の出来事    リハビリ科へ転院    夫の闘病日記(一部)    リハビリとパソコン


 突然の出来事

「ママ又やった。すぐ来て!」秋も盛りの平成16年11月25日夕刻、その夜は主人が夜勤なので、夕食は簡単にと思っていた矢先の電話であった。2回目が起こったのだとすぐ分る。途端に心臓の鼓動が激しくなった。取るもの取り合えずS所に駆けつけてみると、かなりの人だかりがしている。人を押しのけて中に入ると、総務課長が「救急車!救急車!」と怒鳴っていた。主人は6畳ばかりの宿直室の隅に横たわり、そのとき足はまだ幾分か動いていて、意識もあった。「ママ、病院へ連れて行って」と言った。救急車はすぐに来て、私も乗り込み、H医療センターに搬送されたのである。意識はあったが、数分の間に主人の身体は全然動かなくなっていた。
 CTなどの検査の後、医師に呼ばれた。「脳出血です。命に別状の無い部位で出血が起こっている。入院ですね。今夜は奥さんが付き添っていてください。」動転していたが、娘に電話。看護師詰め所のすぐ前の病室に入院した。子供達や孫がやってきた。「夜になると冷えるから」と誰彼の気遣いで毛布が届けられ、折りたたみ椅子に一夜を明かすことになったのであった。

看取る夜の届けられたる毛布かな

 1時間おきぐらいに看護師さんが見回りに来る。主人は朦朧としているようす。夜明けが遅い。14年前も同じような思いをしたことを思い出す。その時はまだ若かったから、寝ずの看病も頑張れたが、私も還暦をとうに越した。弱音は吐くまい。病人が一番苦しいのだと言い聞かす。正直こんな思いはもうしたくない。見守り続け、鉛のようになった身体にようやく夜が明けてきた。
 翌日になると手術が待っていた。頭を剃られ右脳に穴をあけ、血液を抜かれた主人が手術室から出てきた。その夜は家に帰ってよいと言われ、置きっぱなしの車を市役所に取りに行き、家に帰り、真っ暗な部屋の電気をつけると、慌てて出て行った時のままの室内があった。主人の読みかけの本も、使っていた物もそのまま・・・亡くなった訳でもないのに無性に涙が溢れた。もう平凡な日常生活は送れないのか。「ベット脇のポータブルトイレまで2・3歩でも歩ければ良い方でしょう。」と言われていた。主人にも私にもあまりに無残な現実をいきなり突きつけられ、その重さに打ちひしがれ、身動きが出来なかった。

   病む夫(つま)の予定書かれし古暦

 12月に入り日暮れが早い。主人は尋常ではないほどに頭が痛いと言う。いつもしかめ面をしている。自力で身体を動かすことが出来ない上、私の非力では72キロはてこでも動かない。何枚ものオムツでがんじがらめにされている。それでも1週間目からリハビリが始まった。リハビリの先生は女性だが、慣れた手つきで主人の身体を持ち上げて車椅子に坐らせる。パジャマのズボンを持つので、ついに布が裂けてきた。食事も大変。先ず起こす時一人では難しい。上半身立てたベットの間に、クッションをいくつも挟んで身体を支える。右手が利くので何とか食べることは出来た。

   病室に修羅の日もあり冬日和

看護師さんの手が回らないので、食事時間は家族が居ないといけない。朝は娘が来てくれ、昼と夜は私が付く。主人は頭痛のためか食欲がない。痩せてゆくのが目に見えるほどだ。食事が終わるとあとは寝るだけにして私は帰る。日に日に寒くなると心も寒い。病院では気丈を装っているが、一人になる帰りの夜道、寂しいのと、寒いのと、心細いのとが入り混じって涙が流れた。
       
       灯の点かぬわが窓見ゆる冬の月

     看取る吾に力を給へ冬の月

 この町には1つしかない総合病院であるのに、「ここは急性期の病院ですから、病状が落ち着いたら出てください。12月一杯です。」とそっけなく言われる。「寝たきりで看る準備をしなさい。なまじ動かれるより寝たきりのほうが看易いよ」とも言われる。人間扱いしていない医者の言葉と感じても、弱い立場であるから強くは言えない。そうやって出される患者がこの町には多くあり、どこの個人病院も満床であった。 
  益田にリハビリ専門の病院があると聞くが、紹介状がないと行けない病院である。先生に掛け合うと、「負荷が掛かって3回目が起きたらどうしますか。もう命は無いですよ。」と・・・その頃、同級生のお医者にメールで相談すると、「寝ていてもリハビリしていても、3回目が起きるときは何していても起きる。リハビリを勧めるよ。」彼は病院まで来てくれ、リハビリの様子も終わりまで逐一見てそう言ってくれた。その言葉に勇気付けられ、私はもう一度先生に紹介状を頼んだ。「何度言わせるのですか!」と言われる。駄目なら私が主人のリハビリをしようと決め、ベットで主人の脚を動かしていたら、その様子をある看護師さんが見ていた。「私が掛け合ってあげる」と言う。「そんな事をして、看護師さんの立場が無くなりはしないの?」と私。「大丈夫、仕事のことだから・・・駄目ならもっと上の先生に掛け合う。」とまで言ってくれたのであった。30台の若い看護師さん。離婚したが、子どもが一人あるのよと言っていた。私は彼女に任せた。それからどんなことがあったのかは知る由も無かった。

 3日目の朝突然、地域連携室から人が来て「益田の医師会病院に紹介状を出しました。行ってもらいますので、明日中に会計を済ませ、ベットタクシーを9時に予約しなさい」と。夢のようであった。次の朝、色々あった病院とも別れて、迎えのベットタクシーに乗った。看護師長が送ってくれたが、医者とは会わずじまい。件の看護師さんに「くれぐれも無理は禁物ですよ」と言われ、何度もお礼を言ったことは言うまでも無い。

   山眠る看取りの我も眠れとよ

   忘年会すべて断り夫看取る

                    リハビリへ出てゆく夫へちゃんちゃんこ 

 リハビリ科へ転院

 リハビリ科のある益田医師会病院の医師は女医さんで、「3ヶ月で歩けるようにします」といともあっさりと言ってのけた。車椅子からベットへの移動も何人がかりの現在、本当なのだろうかと耳を疑う。同じ医者でも言うことがこんなにも違うものか。夢のような話だ。当面は内科で検査をし、5日後にリハビリ棟へと移った。

 病院まで車で1時間の道のりを年内は毎日通った。廊下も広く、新しい病院だ。スタッフもとても親切。驚いたのは廊下などで出会う職員一人一人がみな挨拶してくれることだ。紹介状がないと行けない病院だから、待合室も混み合っていない。総じて静かな印象である。良いリハビリが出来そうな予感がもうしていた。先の希望が見えてきて、もう涙はなかった。

   元朝の雪ついて夫見舞ひけり

   病室の夫と御慶を述べ合ひて

   夫見舞ふ一と日一と日や日脚伸ぶ

 個室に入っていた主人は話し相手もなく、言語の弁別障害で、聞き取りも難しくなっていたせいか、パソコンで日記を付けたいと言い出した。この大変な体験を忘れないようにしたいのだと言う。子どもや孫にも残しておきたい。字を書くことは漢字も忘れているから難しいが、パソコンなら変換キーで思い出せる。たとえ一本指でも打てる。リハビリの一環としても良いことと思い、病院側にお願いすると許可が出て、専用の机をあてがってくれ、コードを繋いでくれた。勿論インターネットは出来ない。片手だから始めはポツリポツリ、のろのろと、文章も誤字、当て字は茶飯事であった。「パパ、左手でも打ってみたら?」「左手は机の上に乗せると、だらんと下に落ちてしまうんだ。」「諦めないで時々でいいからやってみてね」と私。